引用は、『さよなら絶望先生』1巻。
このクラスには、とっても変わったヒトがいる。まず担任の「糸色望(いとしきのぞむ)」からして、変わっている。ときどき「○○に絶望した」と叫んだり、たびたび自殺未遂したりする。なお、「糸色先生」は「自殺未遂」が好きなのであって、自殺したいのではないらしい。
この変わっているクラスメイトの中で、もう1人紹介しておきます。引用した画像に出てきている、「木津千里」。彼女は、「几帳面」で「粘着質少女」。なにごとをするのにも、キッチリしていないと気がすまない。
そんな、かなり「クセ」のありそうな生徒のそろったこのクラス。そこを「糸色」が担任をしている。で、このクラスにいる生徒の名簿が出てきているのが、このシーン。
だけれども、名簿が汚れている。それが「吐血」によるものなのか、それともコーヒーをこぼしただけなのか。それは、どっちでもいい。大事なのは、名簿のくせにクラスメイト全員のプロフィールが分からなくなっているということ。ここを、まず押さえておきます。
そして。この「ところどころ見えない」名簿について、担任の「糸色」の口から出たコメント。これが、「反語的否認」にあたります。
隠れてしまっている
部分はまだ 考えてないとか
そーゆうんじゃ ありません
というところです。ここは、
【見せかけだけの否定】
「クラス全員のことが書いてある名簿ではないというのは、まだ考えていないからではない」
【伝えたいホントのこと】
「まあホントは、まだ考えていない。だから、吐血(orコーヒー)で汚しておいたんだけどね」
という。「見せかけ」と「ホントのこと」とが、正反対になることばづかい。表面では「ちがう」と言っておきながら、ウラでは「そうなんだよ」といった二面性のあることばづかい。こういった言ったことと逆のことを伝えようとするのが、「反語的否認」です。
なお。
この例は、作者が話の流れで、ワザと「反語的否認」となるようにストーリーを作ったということ。これは、とても重要なことです。
もしも「クラスメイト全員の性格とか特徴とか」が、ホントに決まっていないのならば。べつに、この場面で「クラス名簿」を描く必要はありません。
また、「クラス名簿」を書くにしても。「吐血(orコーヒー)で見えないところがある」なんていう絵を描かなくたってよかったはずです。今まで出てきたキャラクターの部分だけズームアップさせた「クラス名簿」を描くことだってできるはずです。
なのに。あからさまに「吐血(orコーヒー)」で隠れてしまったクラス名簿を描く。その上で、
隠れてしまっている
部分はまだ 考えてないとか
そーゆうんじゃ ありません
という、ムリな言いわけをする。こんなことをしているのは、このシーンを「反語的否認」と受けとってほしいからに違いありません。
「まあホントは、まだ考えていない。だから、吐血(orコーヒー)で汚しておいたんだけどね」
といったことを伝えようとしているためです。
なお。
『さよなら絶望先生』というコミックスは、たくさんの「レトリック」が登場します。「少年コミック」で、これだけ多くの「レトリック」が見つかるのは、ほとんどありません。ですので、このサイトで引用させていただいているコミックも、「少女コミック」が多くなっています。