では、なぜ「婉曲語法」がないのか。
このことについて私(サイト作成者)は、『レトリックの記号論(講談社学術文庫 1098)』(佐藤信夫/講談社)から推察することができるのではないかと思います。
つまり佐藤信夫先生の、地味にふるまっている記号表現でも、その意図とは無関係に、単に「発言された」というその事実によってすでに一種の強調となってしまうのだ。
という記述から、くみ取ることのできるものがあるのではないかと思うのです。
結論を書くと、佐藤信夫先生は、レトリックによって表現が「弱められる」ことを認めていない
と考えているのではないか。そのように、私(サイト作成者)は受け取っています。
というのは、上で引用した文章を見ると。
ふつう「記号表現」ということばは、「シニフィアン」を指している。そして、「シニフィアン」が強調される、という文章には読むことができない。このことから、主語は書かれていないけれども「シニフィエ」であると思われる。
そこで、文章に主語である「シニフィエ」ということばを加えたうえで受動態にすると、「シニフィアン」は地味にふるまっていても、「シニフィエ」は、その(発言の)意図とは無関係に、単に「発言された」というその事実によってすでに、一種の強調をされてしまうのだ。
と読むことができます。略して、「シニフィエは、発言されることによって強調されてしまうのだ」となります。
そして。
これを逆から「緩叙法」っぽく読むと、「シニフィエは、発言によって稀薄化することはない」となります。
「シニフィエは、発言によって稀薄化することはない」——この文章は、明らかに「婉曲語法」を否定しています。ものごとを遠回しに言うことはできないというのは、「婉曲語法」はできないというのと同じです。
といったぐあいにして、「婉曲語法」ということばが『レトリック事典』から消えてしまった。私(サイト作成者)は、このように読みとっています。
なお『レトリックの記号論』では、「美化法」という名前で〈euphemism〉が登場します。このばあい「美化法」は、遠回しに使ったことによって注目されるようにすることを指しています。積極的に目立たせるのが「美化法」なのです。
したがって「美化法」は、程度を弱めるものではありません。むしろ反対に、「美化」することで印象を深めるものなのです。