- 久保(コックになりたいと
- 思い始めたのは
- 中3の夏!
- 大好きな彼女の 誕生日!
- 気張ってフルコースを
- おごったんだ)
- 久保(綺麗で
- 夢みたいな味の料理
- 彼女は実に
- 旨そうに
- 食ってくれた)
-『ハッスルで行こう』1巻14〜15ページ(なかじ有紀/白泉社 花とゆめCOMICS)共感覚法は、五感の間で表現の貸し借りをするレトリックです。つまり、触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚の五感の間で表現をやりとりするものです。
——
ある感覚表現を、他の感覚を借りて描く
- 表現したいと思っている感覚表現を、ほかの感覚表現をつかって表す。これが「共感覚法」です。たとえば「なめらかな味」では、「なめらか」という触覚の表現を使って「味」という味覚を表すことになります。
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- 引用は『ハッスルで行こう』1巻から。
まず、こういった料理の漫画としては『美味しんぼ』が思いつきます。しかしこの漫画からの引用は、瀬戸賢一氏の著書で先に使っていました(『将太の寿司』も使っていた)。
同じものを例に出すのも何なので、他に、同じ料理ものの漫画を考えました。そこで、この『ハッスルで行こう』が思いつきましたので、このページでは『ハッスルで行こう』を使ってみます。
引用したところは、主人公の久保海里が中学生だった時の回想シーンです。ですので、久保がコックになりたいと思うようになった経緯が書かれています。
中学生当時の彼女の誕生日に、フルコースをおごった。その時の、彼女が食べている料理の「味」に注目してみましょう。すると、綺麗で 夢みたいな味
と書かれています。国語辞典的には、「綺麗」「夢」という表現は「視覚」に属するものです。しかし、ここではその視覚表現を味覚へと転用して、「綺麗で夢みたいな味」という表現となっています。ここが「共感覚法」にあたります。
ですが、「綺麗な味」とはどんな味なのか? 「夢みたいな味」とはどんな味なのか? と尋ねられても、それは端的に説明できるものではありません。説明できるものではないからこそ、「綺麗で夢みたいな味」という異例な言葉が使われているわけです。
- 「共感覚法」のカタチ
- 基本的な「共感覚法」のカタチ
- 例えば味覚について考えてみると、甘味・苦味・酸味・塩味・旨味の5種類があって、言葉が一応はそろっています。しかし、このような言葉では不足してしまう場合には、別の方法で補わなくてはなりません。
共感覚法は、この需要にこたえるものです。五感のうちで、他の感覚に使われる表現を使うことによってニーズに応じるというわけです。、
例えば「柔らかい味」をいう表現を見てみましょう。
ふつう「柔らかい」という言葉は、手で触って感じるもの、つまり触覚を表現するときに使います。しかし、味覚である「味」を表現するときに、甘味・苦味・酸味・塩味・旨味では十分には言えない場合が出てきます。そこで、「柔らかい」という表現を触覚から味覚へと転用して、「柔らかい味」という表現が使われる。これが「共感覚法」です。
なお、この「共感覚法」は、「共感覚表現」と呼ばれたり、単に「共感覚」と言われたりします。
- 「共感覚法」が、よりどころにするレトリック
- 「共感覚法」に当てはまる共感覚表現は、どのようなレトリックをよりどころにしているのか。
それを「
隠喩」「
換喩」「
提喩」の3つのなかから選ぶとすれば、「
隠喩」がいちばん多いです。つぎに多いのが「
換喩」で、3つのなかでいちばん少ないのは「
提喩」です。けれども「
提喩」もそれほど少ないわけではありません。
- 「共感覚法」が使われる場面
- 実際のシーンでは、純粋な「共感覚法」が使われる場合は限られるようです。
『イソップのレトリック—メタファーからメトニミーへ—』(樋口桂子/勁草書房)では、多くの場合には次のような修辞的な方法を使われると指摘しています。つまり、下にあげるような方法で表現されるとしています。- 「
擬音語」で感覚を表現する
(「カーカーと鳴いている」「ドンドンと音がする」、など)
- 「出所」で感覚を表現する
(「小川の音がする」「クラリネットの音がする」、など)
- 「
直喩」で感覚を表現する
(「〜のような香りがする」「〜のような味がする」、など)
このような方法によって表現されることが多いと指摘しています。そして、仮に「共感覚法」が使われたとしても、- 「ステレオタイプ化」したもので表現する
(「渋い声」「甘いマスク」「黄色い声」、など)
という決まりきった表現が使われるだけで、生き生きとした「共感覚法」は見つけるのが難しいとしています。
これら、上に書いた表現方法は、純粋な「共感覚法」とは言いづらいものです。しかし、これらであっても、「五感の間での表現の貸し借り」があれば、「共感覚法」に含めて考えるのが一般的なようです。
- 「共感覚法」における「一方向性の仮説」
- 以前はこの「共感覚法」においては、「一方向性の仮説」というものが成り立つと考えられていました。
「一方向性の仮説」というのは、[[[dcsq[触覚→味覚→嗅覚]→[視覚→聴覚]
といった図で表すことができます。
この図の意味していることは、例えば「味覚」(=貸し手)の表現を借りて「視覚」(=借り手)を表現することはできる(矢印の方向が「味覚→視覚」となっている)。ですが、反対に「視覚」の表現を借りて「触覚」を表すことはできない(矢印の方向が「視覚→触覚」になっていない)。これが「一方向性の仮説」です。
例えば「甘い声」であれば、「味覚」の表現を借りて「聴覚」を表現している。しかし、その逆に「聴覚」の表現を借りて「味覚」をあらわすことはできない。これが、「一方向性の仮説」です。
しかし、「この仮説は、どのような場合にでも成り立つものではない」、というものが現在の考え方です。
例えば「うるさい味」についてみてみる。すると、「聴覚」の表現である「うるさい」という言葉を、「味覚」を表現するために借りている。これは、「一方向性の仮説」に逆らっています。「一方向性の仮説」では、「味覚→聴覚」の貸し借りができるが、その逆はできないとされていました。ですが「うるさい味」では、「聴覚→味覚」の貸し借りという「一方向性の仮説」に逆らったことが起こっています。
そして、このような「一方向の仮説」に逆らった表現は、現実にはあります。実際には反例が多く見つかるのです。その点で、「一方向の仮説」は厳密には成り立たないという考えが、今では大勢を占めています。
しかし、「一方向性の仮説」が成り立つ数に比べて、「一方向性の仮説」の逆(反例)が少ないことは事実です。そこから、「一方向性の仮説」に何らかの修正を加えて成立させようというのが、現在の動きです。
そういえば、引用してきた文も「一方向性の仮説」に逆らっています。
「綺麗で夢みたいな味」という表現。これは、「視覚」から「味覚」へ表現が貸し出されています。ですのでこれは「一方向性の仮説」に反しています。こんなふうに、「一方向性の仮説」が成り立たない例がわりと多い。では、これをどのように説明して解決に持ち込むか。それはまだ、この「共感覚法」を扱っている学者たちの研究の段階です。