- 「〜チョコ」ってことば、「指小辞」なんですか?
- このページでは「愛称語」の例として、「麦チョコ」というものを採用しました。つまり、名前の「麦」に「〜チョコ」ということばがプラスされているから「愛称語」だとしたわけです。
ですが。
ここには、重要な問題がかくされています。それは、そもそも「〜チョコ」ということばは、「指小辞」なのか
ということです。何度か書いていますが「愛称語」というのは、名前に「指小辞」がくっついていなければいけないのです。「〜ちゃん」といったような「指小辞」をくっつけることによって、はじめて「愛称語」となるのです。
そこで。この「〜チョコ」ということばが、はたして「指小辞」といえるのかということが問題となってくるのです。
結論から先に書くと、これからは「〜チョコ」の時代(?)
という、ちょっとヘンなものになります。
なにが言いたいのかというと。
「〜タン」が流行したように、これからは「〜チョコ」を広まらせようという、このサイトの陰謀です。文法的にいえば、「〜チョコ」を「指小辞」にしてしまおうというわけです。
これについての反論としては、たとえば、「指小辞」は、ことばとして単独では使うことのできない「接尾辞(接辞)」でなければならない
というものが考えられます。たしかに理論としては、そのとおりです。ですが、ここでは、
「〜チョコ」ということばを「品詞転換」して、「接尾辞」としても使うことのできる可能性は十分にある
としておきます。
くわしい語源を調べたわけではないのですが。おそらく、「愛称語」を作る「指小辞」の「〜くん」ということば。これはもともと、敬意をあらわす名詞であったのだろうと推測できます。これと同じようなコースで、「〜チョコ」を「指小辞」としていくことはできると思います。
まあ。
レトリックをやっていると、だんだん、「品詞」なんていうものはコロコロと変化するものだという感じをもつものです。それこそ、「品詞転換」というレトリック用語があるくらいなんだから。
それに、音の感じ(音象徴)という点を見ても。「ちょこっと」とか「ちょこちょこ」とかいったようなことばに似たイメージを、引きだすことができます。つまり、親しい感じであるとか、仲がよい感じというものをあらわすことはできると思うのです。
そんなわけで、ここに、「〜チョコ」を広まらせようの会
をつつましく立ち上げておきます。 「む、無理です…」 by麦チョコ。
- シャチから「サシミ」は作れるか
- こちらは、『ながされて藍蘭島』についてのコメントです。
すず。彼女がネーミングすると、ブタ(?)に「とんかつ」になりました。ニワトリ(?)は「からあげ」にされてしまいました。
でも、「シャチ(?)」にたいしては、ちょっとヘンな名前をつけられています。
どういうものかというと。シャチ(?)にたいしては、サシミ
このネーミング。レトリックでは、カンタンに説明することができません。
どういうことかというと。レトリックの理屈どおりに考えれば、- もしも「シャチ」=「刺身にできる(食べられるもの)」
- ならば →「
換喩」
- もしも「シャチ」=「刺身にできない(食べられないもの)」
- ならば →「
隠喩」
という、なんとも奇妙なことになりまねません。ですので、どちらなのかをすぐに決めることはできません。
「シャチ」は刺身にできるのか。「シャチ」は食べられるのか。「シャチ」が食べられるのかどうかを知っているヒトがどれほどいるか。「シャチ」を食べる習慣が日本にあるのか。「シャチ」を食べたいと思う人がどれだけいるか。「シャチ」は日本の海にどれだけ住んでいるのか。「シャチ」は絶滅危惧だけれども食べても怒られないか。……など。
このように考えると。「シャチ」を使って刺身をつくることができるか。そんな、ほとんどのヒトが首をかしげるような基準で。「
隠喩」
なのか「
換喩」なのかといったことを決めるのは、かなり難問です。
ちなみに。私(サイト作成者)は「
換喩」だと考えます。つまり科学的にみて「食べてOK」なのかということは、レトリックにとってあまり関係がない。それよりもむしろ、「シャチ」ということばと「海に住んでいる」という状況がたいせつだと思うのです。
いいかたをかえれば。
「シャチ」と「サシミ」という、2つの単語があつまったときに。
- 「シャチ」は海に住んでいる
- 海に住んでいるものは、たいてい刺身にできる
- じゃあ「シャチ」も、刺身になるのかもしれない
という考えが連想される。
そう。
「シャチ」と「刺身」とは結びつきがある。そのように、アタマで思い浮かべることができるのであれば。十分に「
換喩」といえると考えるわけです。
たとえ。その連想が、「たいてい」だとか「かもしれない」とかいう、あいまいなものだとしても。また、論理学的に見て「三段論法」ということができないような、そんな理論立てだとしても。その2つが、「関わりあいのある単語だ」とアタマの中で気がつくこと。それができれば、「
換喩」といえると思うのです。
…まあ。「
隠喩」なのか、それとも「
換喩」なのか。それが決まったとしても、だから何になるというわけでもないのですが。