「提喩」の一般的な定義
- 提喩をどのように定義するかについては、いろいろな説があげられています。そこで、このページでは、そのよな定義があるのかを見ていくことにします。
まず、いちばん一般的な説。それは、このサイトの最初【定義】に書いたものです。
国語辞典とかのレベルであれば、この「いちばん一般的な説」についてだけ説明が載っていればOKだといえます。
どうでもいいけど。
『新明解国語辞典』には、「提喩」の項目がない。「隠喩」とか「換喩」とかは、ちゃんとあるのに。しかも、「引喩」のようなマイナーそうなレトリック用語までちゃんと載せているのに。どうして「提喩」が見あたらないのだろう。
「提喩」はイラナイ、って考えなのかもしれない。そういう考えかたもあったりするので、この「提喩」をどうやって定義するかは本当に難しい。
「種と類」「類と種」という関係にまとめる説
- 「種の提喩」 :
- 個物で、類概念をしめすこと。
- 種でもって類をあらわす言いかた。[[li](=一般化の提喩)
- ・「ご飯」で、「ソバ」や「スパゲッティ」のことを言う
- ・「人はパンのみにて生くるにあらず」では、「パン」で「食べ物全般」を言う など
つまり、べつの表現にしてみると。
「提喩」というのは、「カテゴリー間のでの言葉の置きかえ」「カテゴリー・レベルを変えること」だということになります。
というのは、
- 上位のカテゴリー(類)を、
- 下位のカテゴリー(種)で表したりするばあい
- →「類の提喩」
- 下位のカテゴリー(種)を、
- 上位のカテゴリー(類)に置きかえたりするばあい
- →「種の提喩」
というふうに言いかえることができるからです。
いいかえれば。
「提喩」には、「一般化する働き」と「特殊化する働き」があるといえます。そして、一般化のほうは「くくること」であり、特殊化のほうは「例をあげること」にあたるといえます。
「あるいは」と「かつ」という関係で「換喩」と区別する説
- 古代から現代にいたるまで、「提喩とは何ぞや?」という問題はずっと考えられ続けてきました。ですが現在では、ここで書くことになる説が、いちばん有力だと思います。
その説というのは、「あるいは」と「かつ」という関係のどちらが成りたつかを考える説です。つまり、例えられることになったものと、実際使われた言葉との間に、
- 「かつ」という関係があれば、「提喩」
- 「あるいは」という関係があれば、「
換喩」
とすることによって「提喩」と「換喩」とを区別して、「提喩」をハッキリさせようとする考えかたです。
そういうことかというと、だいたい次のようなことになります。なおこの説では、「提喩」に似たレトリックといえる「
換喩」と比べながら「提喩」についての定義をします。ですので、あわせて「
換喩」についても書くことになります。
「提喩」とは?
- まず「提喩」。
例えば「木」ということばを使うことによって、「桜」だとか「梅」だとかをあらわしているばあいを考えてみましょう。
すると、木 = 桜「または」梅「または」竹「または」…
といった関係になっていることが分かります。つまり、接続詞「あるいは」によって結ぶことのできる関係だということが言えます。
こういった接続詞「あるいは」によって結ぶことのできる関係を、「論理的和」の関係と考えることにします。そして、この「論理的和」つまり「あるいは関係」が成りたっているものについて、これを「提喩」と捉えることとします。
「換喩」とは?
「提喩」とは?——再び
- 上に書いたように、「提喩」とは「論理的和」です。でもって、総和の記号は「シグマΣ」です。なので、このような説では「シグマΣ」によって「提喩」を説明することがあります。
つまり、提喩Σ : 木=桜or梅or竹or……
の公式で表せるもの。これが「提喩」といえます。
なお、このときには。「あるいは」という接続詞のかわりに、「or」という英語を使ったりします。
「換喩」とは?——再び
- これに対して、「
換喩」のばあいは「論理的積」です。でもって、総積の記号は「パイΠ」です。まあ、数学をあまり知らない私(サイト作成者)には縁もゆかりもないのですが、とにかく「大文字パイ」というヤツは「総積」をあらわす記号です。なので、こちらは「パイΠ」によって「換喩」を説明することになります。
つまり、という式が成立するものです。これが「
換喩」となります。
なお、このときには。「かつ」という接続詞のかわりに、「and」という英語を使ったりします。
この説に関する本
- この説は、佐藤信夫先生の唱えていた考えかたを紹介するものです。つまり、根っこの部分では、グループμの『一般修辞学』にもとづく。その上で、佐藤先生による手直しを加えた。それが、この説です。
日本では現在、わりとこの定義が一般です。
なお。この説については。
いちばんの参考文献としてはやっぱり、佐藤先生の『レトリック感覚』をあげておきます。『一般修辞学』(グループμ[著]、佐々木健一・樋口桂子[共訳]/大修館書店)については、翻訳書なのでイキナリ飛びつくのはハードルが高いと思います。
「提喩」に当てはまる条件を並べる説
- ここを読んだいるあなた、えらい。こんなにも、つい読み飛ばしそうなところまで念入りに目を入れているなんて、書いている人として感動です。だってもう、パソコンをタイピングしている本人が、あきてきて疲れがたまっているんだから、しょうがない。
その上というか。これから書く
説は、かなりムダ知識です。なにせ、現代では使う人がほとんどいないのだから。
でも。サイトの都合上、ちょこっとは触れておかなければイケナイ説だと思うので、記していくことにします。
この説の特徴——とにかく条件をいくつも並べる
- この説の特徴。それは、「提喩」に当てはまることになる条件をいくつも並べることになるということです。つまり、いくつか並んでいる条件のうちで、どれかに当てはまったら「提喩」といえるとする説です。
例えば。『レトリック感覚』では、4つの条件を並べているデュマルセの説明を要約して載せてあります。ですので、この4つを書き写して引用しておきます。
なお。いうまでもなく私(サイト作成者)はフランス語を読み書きできません。なので、デュマルセの本を読めるはずもありません。結果としてこれから書く「条件」というのは、『レトリック感覚』からの孫引きです。
条件——。 - 《類による提喩》
——小さい集合をあらわすために、大きな集合(類)の名をもちいる表現
- 《種による提喩》
——大きい集合をあらわすために、小さな集合(種)の名をもちいる表現
- 《数の提喩》
——複数形をもちいる代わりに、単数表現を使う(またはその逆)
- 《全体のかわりに部分を、また部分のかわりに全体をもちいる提喩》
古くからある説
- この説は、古くからの伝統ある説です。年代物のレトリック書とかをヒモとけば、おそらくこの説で「提喩」のことを説明しようとしているはずです。近代のレトリックでは、ごくふつうの解説パターンでした。
でもまあ、こんにちでは人気がありません。というのは、条件がシンプルでないのです。とにかく、「提喩」に当てはまるような条件を、いくつもいくつも並べて、それに適合すれば「提喩」ですという説明のしかたなのです。
少ない人は、「提喩」となるばあいとして3〜4個くらいの条件を出します。ですが、多い人だと8個以上の条件を並べちゃいます。でもって、「この並んでいる条件の中で、どれかに当てはまれば「提喩」です」というふうに説明する。それってやっぱり、スマートではないです。
そんなわけで。
現在のレトリック学者のなかで、これを前向きに推しすすめる人はいないと思います。
じゃあ、どうしてこんなことを説明する本があるのか。それは、歴史的な流れを確認するためです。つまり、新しい説というのはどうしても、古い説のもっている弱い点や不完全なところを批判してできあがっていくものです。なので、流れとしてやはり古い説を書かざるをえなくなるのです。
まあ、ようするに。
知識としては、持っていたほうがいいかもしれない。でも、この【4.】説にやたらくわしくなる必要もなさそうです。
参考文献
- むかしの人の書いた本は、この説を説明するために場所をとっています。ですが、そういったもののうち、ほとんどが翻訳本です。なので、イキナリ読むのは難しいかなという感じがします。
現代の書物でいえば。『レトリック辞典』(野内良三/国書刊行会) あたりが、現在と比べたりしながら平均的に書いてあります。まあ、『辞典』という本の性質から、そうせざるをえなかったという面はあると思うけれども。
「〜の一部」と「〜の一種」という関係で「換喩」と区別する説
- この説は、「提喩」と「
換喩」との区別が楽ちんです。どうしてかというと、「ただ公式に当てはめればいい」からです。
「提喩」のばあい
「換喩」のばあい
参考文献
- これは、瀬戸賢一氏が強く主張している考えかたです。なので、『日本語のレトリック—文章表現の技法—(岩波ジュニア新書 418)』(瀬戸賢一/岩波書店)が入門としては最適です。
あとは、『認識のレトリック』(瀬戸賢一/海鳴社)あたりに丁寧な説明があります。
「提喩」を深く知る
- …と。ここからは、中級レベルの人に向けた内容となっております。つまり、いろんな学者の「あーでもないこーでもない」論争を、ひとめぐりしてみたいと考えます。
それは、べつに。
急に「難しい」文章になるというわけではありません。私(サイト作成者)の持っている「できるだけ伝わりやすい日本語で書く」というモットーは、これっぽっちも動くことはありません。
ただ。
いままで上に書いたものだけで、「提喩」という「レトリック」が何であるかハッキリ分かった、という人はいないと思います。ですので、次にいくつかの説明の方法をかきとめて、この「提喩」に少しだけ迫っていきたいと思います。
「一般化の提喩」と「個別化の提喩」
ジミな「提喩」
- この「提喩」は、とても地味なレトリックです。普段の会話などで使われても「レトリック」だと気がつかないくらい、非常に地味です。
それはつまり、なかなか「これぞ提喩だ」という表現には出くわさないということもできます。
しかし、地味だということは。
見かたを変えれば、人が物事を見たり聞いたり判断したりするときの「基本」だということもできます。つまり、世の中のことを自分のものとして受け入れようとするときには、いつでも「提喩」の機能が動き働いているということができます。
「提喩」はその地味であるがゆえに、日常の生活ではよく使われ、重要な役割を果たしています。
「提喩」と他のレトリックとの関係
「提喩」の基本的性質
- この「提喩」は、とても地味なレトリックです。普段の会話などで使われても「レトリック」だと気がつかないくらい、非常に地味です。
それはつまり、なかなか「これぞ提喩だ」という表現には出くわさないということもできます。
しかし、地味だということは。
見かたを変えれば、人が物事を見たり聞いたり判断したりするときの「基本」だということもできます。つまり、世の中のことを自分のものとして受け入れようとするときには、いつでも「提喩」の機能が動き働いているということができます。
「提喩」はその地味であるがゆえに、日常の生活ではよく使われ、重要な役割を果たしています。
「提喩」—「換喩」—「隠喩」という3つの関係
- さて。
この「提喩」—「換喩」—「隠喩」というものを、どのようにバランスをとって位置づけるか。そのことは、そのまま「提喩とは何か」ということにつながります。つまり、「提喩」についての定義をどのようにするかということと、深く密接に関係するわけです。
なので、ここには突き詰めたことは書きません。
ですので。
いろいろと、説や考え方が分かれているのですが。ここには、かるく「箇条書き」で書いておくにとどめます。- 1. 「提喩」と「換喩」との区別をあきらめる立場
- →
- 「提喩」と「換喩」とを、キッチリ分けることは不可能。
- なので、これを1つにまとめようとする考えかた。
- このように考えると、「提喩」と「換喩」とは同じグループで、
- 「隠喩」は別のグループということになる。
- 2. 「隠喩」を「二重の提喩」とする立場
- →
- 1回だけのカテゴリー変換を「提喩」として、2回のカテゴリー変換を「隠喩」とする考えかた。
- このように考えると、「提喩」と「隠喩」とは同じグループで、
- 「換喩」は別のグループということになる。
- 3. 「換喩」を「隠喩」に含める立場
- →
- 「換喩」について「隠喩」と区別をつけないでおく考えかた。
じつはアリストテレスがはじめに「隠喩」という用語を使ったときの意味は、これにあたる。
このように考えると、「換喩」と「隠喩」とは同じグループで、「提喩」は別のグループということになる。
- 4.どうにかして、「隠喩」と「提喩」と「換喩」の3つを区別しようとする立場
- →
- 「隠喩」と「提喩」と「換喩」の3つは、
- それぞれ違ったものだとする考えた。
- これについての理屈づけは、いろいろある。
- けれど、とりあえずそういったことを目指している説はみんなここに入れることにする。
- ほとんどのレトリック学者は、
- 理想としてはこれがGOODだと思っているはず。
- このように考えると、「隠喩」も「提喩」も「換喩」も、
- それぞれ別のグループということになる。
とまあ。かるく「箇条書き」とかいいながら、長くなってしまいました。でも、これでもサワリ程度なんです。ことば足らずなところ、理論不足なところが目につきます。でも、このくらいの説明にとどめておきます。
「提喩」と「換称」との関係
- 人間について「提喩」を当てはめたばあい。
そのときは、「
換称」というレトリックとも重なります。
どうしてかというと、「
換称」というのは、- 本当の名前のかわりに、通称・あだ名で呼ぶ
- 特定の人を呼ぶことばをつかって、通称・あだ名とする
というレトリックだからです。つまり、「本当の名前」と「通称・あだ名」とのあいだに、「提喩」の関係があるというわけです。
このあたりについてくわしくは、「換称」の項目をご覧ください。
また。
この「提喩」が極端になって、もともとのイメージがなくなるほどになっているばあい。これを、「失形象法」として細分化することがあります。
「提喩」と「季語」との関係